Read More


3,272

Share

連休に入る少し前に愛媛を訪れた。
考えてみると、道後温泉にゆっくり泊まったのは子供のころ以来かもしれない。
道後の旅館「ふなや」は素晴らしかった。
部屋も湯もサービスも食事も満点だったが、なにより良かったのは夕飯の煮魚が小さなカサゴだったことだ。

カサゴという根魚は全国的に珍しくもなく、型の小さいものは雑魚と言われてもおかしくない。しかし、うまく調理された甘みのあるふっくらとしたカサゴの身の味は、そのへんの高級魚をはるかに凌ぐ。名もなき小魚をメインにもってくる料理長の度胸と、素材に対する愛情がうかがえる、見事な仕事だった。
もうひとつ特筆するべきは最後に出てきた鯛飯である。
煮魚同様、丁寧にひかれた出汁に最小限の調味料で味付けされていた。一粒一粒につやのある米、鯛の旨味、バランス。思わず目を閉じてしまううまさだった。

松山のあとは高知県にほど近い愛南町へ行ってみようと考えていたのだが、ちゃんと計画を立てられたのは連休に入る2日前だった。インターネットで調べてみると、レンタカーはどこにも残っていなかった。
鉄道の便が悪い愛南へは、路線バスという選択肢しかなかった。まずは松山から宇和島まで2時間。路線バスではあるが、一部高速道路を走る「特急」という名の付くもので、二人がけのシートとトイレが設備されていた。
宇和島で1時間ほど乗り換え待ちをして、そこから愛南町までは普通の路線バスに1時間以上揺られた。路線バスの料金箱に1400円入れたのは初めてである。

愛南には見てみたいものがあった。
「紫電改」 である。
昭和53年、1機の紫電改が地元のダイバーにより愛南の良久湾41メートルの海底で発見され (前々から地元漁師のあいだでは周知のことだったらしい)、翌年引き揚げ作業が行われた。
その後は愛南町御荘平城(みしょうひらじょう)の紫電改展示館内に展示されている。

第二次世界大戦下の日本の戦闘機の性能は極めて優れていた。意外なことに連合国軍は日本の戦闘機を元に開発改良を繰り返していたという。
戦局に陰りが見え始めた昭和19年、大日本帝国海軍はゼロ戦に次ぐ戦闘機の開発を急務とした。物資の不足が深刻となり実質的な量産体勢を組むことは困難だったが、紫電の改良型「紫電改」は、当時最強の局地戦闘機だった。

昭和20年7月といえば終戦のほんの3週間前のことである。
その日、四国の南から侵攻してきた米軍爆撃機隊200機を迎え撃つべく、紫電改21機が大村基地を離陸。
多勢に無勢の戦果は上々だったが、6機が未帰還。そのうちの1機が良久湾に没した前途の紫電改である。

皮肉なことに、物資の不足から「身軽」な造りに仕上がった紫電改は連合軍の重厚な戦闘機に比べて旋回の小回りに長けていたという。
俊敏な動きで前方の米軍機にロックオンした件の紫電改は、ためらわずミサイルを発射する。が、2砲あるうち発射したはずの一方が故障しており、空砲に泣く。
その隙に後方から現れた米軍機に援護射撃を受け、墜落した。

昭和54年の引き揚げのときのことである。
大々的な引き揚げ作業には大勢のマスコミも詰めかけた。
ある新聞社の記者はパイロットを雇い、セスナ機で上空からポイントを目指した。
もっと近く、もっと近くでという記者の要望にパイロットは応えたかったのかもしれない。
限界を求め過ぎたセスナ機は墜落。2名の命を奪う事故となってしまった。

愛南の入り組んだ海岸線にはいくつもの湾が隣り合わせになっている。
海へ出るまえに越える山の途中でタクシーを止めてもらった。
小さくもどっしりと構える急深の湾のあちこちに、鯛やカンパチを養殖するブイが浮いていた。

2015.9.23  東京


3,272

Share